これには驚いた。Pylaisia でごく普通にあるのはキヌゴケ P. brothery ,時々見かけるのがアズマキヌゴケ P. nana 。他の種は隠岐にはないものと決めていた。分布や標高から考えて,とてもありそうには思えない。大体 P. brothery 以外は皆希産種という雰囲気だし。本種についても,平凡社の図鑑では「北海道,本州(中部地方以北)」の分布になっている。
東北・北海道のものというイメージのある種だが,西日本にも記録がないわけではない。近くでは,鳥取県(800m)・兵庫県(300-360m)・京都府(220m)などがある。なお九州にもあるらしく,大分県で絶滅危惧種に指定されている。やっと,隠岐にあってもよかろうという気がしてきた。
人家の庭のモミの木についていた。泉水のほとりで近くに田圃の水路もあって,コケに好さそうな環境である。ただ, P. brothery にそっくりで念のためにちょっと持ち帰ったに過ぎない。もう P. brotheri を採集することはない。今回何故採集する気になったのか不思議だが,本当に運がよかった。ところが家では一週間放置,観察も鬱陶しいのでそのまま捨てようとしていた。そうしたら永久にこのコケに気付くことはなかったかも知れない。
過去にも確か,こんなヒヤ〜ッとした経験をしたことがある。コケを見掛けで判断すると危ないということだ。それしても「少しくらいは違った点もあるだろう」とキヌゴケの実物と並べてみた。その積りで注意すれば何となく感じが違うように見える。しかし,微妙!
(1) 枝先がうなだれるように円く巻く傾向が,より顕著でかなり目立つ。
(2) 光沢がより強く,全体にはっきりしている。なかなかのもの。
(3) 〔朔〕がやや太めの卵形で,円みが強い。
(4) 〔朔〕柄が通常 10-17mmとはるかに長い。この標本ではそれほどでもなかった。
顕微鏡下では,翼部を見れば P. brothery でないことは一目で分かる。翼部が小さく,翼細胞は縁に沿ってせいぜい 10個程度しか並ばない。30個に達する P. brothery とは比較するまでもない。他には,胞子のサイズを測るのがよいと思う。P. brothery の胞子も大きくて径 30μmに達するが,本種は 35μmを軽く越え,日本産の Pylaisia では最大のようだ。
検索表では,平凡社図鑑のものは‘アズマキヌゴケ’との区別の個所で曖昧になったが,よく知っている種なので無事通過。というか P. nana の〔朔〕は卵形ではなく円筒形なのでここの部分は変だ。
T.Arikawa 2004: A taxonomic study of Pylaisia(Musci) の検索表では,内外〔朔〕歯の形と癒着の程度によるタイプ分けが重要になる。そこの解説図の意味がよくわからないが,「内〔朔〕歯歯状突起の先端部は外〔朔〕歯に癒着しない」ことは明白である。これによって,互いに近縁な P. brothery ・ニセキヌゴケ(P.selwynii)・本種の 3種からなるグループに行き着く。この辺モヤモヤしていたが,〔朔〕歯の検鏡結果が,このグループの顕微鏡図版(A. Noguchi 1994)と完全に一致するのでよしとした。なお,P. brothery と P. selwynii の違いに悩んだこともあるが,上記の論文によると P. selwynii は北海道の高地にしか産しない。
他に,茎葉が三角形で長く漸尖することも大きな特徴とされている。確かにそのように感じるがそれほど印象は強くなかった。むしろ,枝葉の小ささが(0.9*ca.0.2mm)が記憶に残る。特徴の一つではないかと思う。
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野に出でよ 見わたすかぎり 春の風 辻貨物船
春風と思ふ 歩いて さう思ふ 嶋田一歩
春風の 草に遊べば 草色に 豊田淳応